
【一】
次の文章は、中屋敷均『わからない世界と向き合うために』の一部である。これを読んで、後の問いに答えなさい。なお、出題に際して、本文には省略および表記を一部変えたところがある。
テレビのバラエティー番組等でも時々見る1バンジージャンプは、オーストラリア東方の南太平洋に浮かぶ国、バヌアツのペンテコスト島で行われる2ナゴールと呼ばれる通過儀礼(成人になるための儀式)が起源と言われています。バンジージャンプには伸縮性のあるゴムが使われますが、ナゴールではヤムイモのつるを足に巻きつけ、高さ数十メートルにもなるやぐらの上から飛び降りるので、その衝撃はバンジージャンプの比ではないそうです。この儀式の重要な点は、参加者はただやぐらから飛び降りるだけでなく、自分が使うヤムイモのつるを、その長さや強度なども含めて自分で決めることになっていることです。つるが長過ぎたり、弱かったりすれば、地面に突することになります。実際けが人が出ることも珍しくなく、時には死に至ることもあるそうです。アトラクションと化している現代のバンジージャンプでは、安全性は基本的に事業者が担保し、飛ぶ側は誓約書を書いてお金を払うだけです。しかし、ナゴールは単なるやんちゃな度胸試しではなく、まさに命がけであり、自分の命を自分で守るという責任が負わされています。だからこそ、それができることが大人の証、つまり通過儀礼とされるのです。
こういった通過儀礼は世界各国にあり、たとえばアフリカのマサイ族では、かつてライオンを投げやりで仕留めることが成人になるための通過儀礼として課されていたそうです。サバンナに一人で出かけて百獣の王であるライオンを狙うのですから、逆に命を落とすことも当然時には起こります。近年ではライオンの個体数の減少からこの儀礼は禁止されたそうですが、これも正真正銘の命がけです。しかし、この通過儀礼を成し遂げることで、一人前の男として認められ、大人の仲間入りができたのです。
こういった命がけの通過儀礼は、現代の我々から見れば理解できない野蛮な風習のようにも映ります。いくら通過儀礼と言っても死んでしまっては元も子もない。物には程度というものがあり、そんな過酷な試練は課すべきではない。確かにその通りでしょう。しかし、ではどうしてそんな儀式が世界各地にあるのか?現代の自分たちの常識で「野蛮な風習」と簡単に切り捨ててしまうのではなく、そのことの意味をもう少し考えてみる価値があるのではないか、私はそう思うのです。こういった通過儀礼に共通していることは、恐怖心に打ち勝つ、そして困難なことをやり遂げる、この2点です。お恥ずかしい話ですが、私は結構、臆病な方です。飛行機に乗る時などは、毎回、離陸の際に墜落したらどうしようなどと考えてしまいます。国際航空運送協会(IATA)が2019年に発表したデータでは、飛行機の事故発生確率は100万フライトあたり1・13回とのことです。単純に計算すれば、たとえば毎日飛行機で職場まで往復したとしても、事故にあう確率は1200年に1回程度になります。『枕草子』を書いた清少納言が「けふも、ひこふき、※いとをかし」とでも言いながら、平安時代からいままで毎日飛行機に乗り続けていたら、1回くらいは事故にあっているかもしれない。そんなレベルの話です。
しかし、です。厳密に考えれば、清少納言が初めて飛行機に乗った時に事故にあってしまう確率もゼロではない。それもまた事実です。そして言うまでもなく、それは清少納言だけでなく誰が飛行機に乗っても同じであり、つまり臆病な私の心配にもまったく根拠がないとは言い切れないのです。
実は私たちの周りには多くの小さなリスクが無数に存在しています。新型コロナウイルスのパンデミックで、バスや電車のつり革やドアノブなどを触ることのリスクが指摘され、アルコールで手を消毒することも日常の光景となりました。しかし、以前から潔癖症と呼ばれる人々はそういった「ばい菌」が周囲にいることに敏感で、バスや電車のつり革を触るなんてとんでもない、と感じていたのです。潔癖症の人たちは、ややもすれば”病的”などと形容されますが、決してその主張に根拠がない訳ではなく、コロナ禍は実際に一定のリスクが存在していることを顕在化させました。車に乗れば、あるいは普通に町を歩いていても交通事故にあうリスクがあり、山に行けば遭難の、また海に行けば溺れてしまうリスクが実際にあります。科学がこの世のすべてを解明している訳でもないのですから、地球に宇宙人が来ていることも、お化けがいることも、先祖を供養しなければたたりがあることも、完全に否定できる訳ではありません。もちろん※蓋然性の高いリスクから、普通はあり得ないようなリスクまで、確率を考えれば幅はありますが、ゼロにならないリスクはこの世に無限に存在している。そのことは厳然たる事実です。
幸いなことに、日頃私たちはそんなリスクのことをあまり意識していません。考え始めればリスクは無限にあるのですから、3心の防衛機能として生まれながらに人はそのようにできているのかもしれません。しかし、意識しようとしまいとリスクはどこにでもあるのがこの世界の本当の姿であり、たとえば私たちが何か重要な選択をしなければならなくなった時、それは否応なく目の前に現れてきます。あまり想像したくないたとえ話にはなりますが、もし腎臓がんになったとして、腎臓全部を摘出するか、がんになった箇所を部分的に切除するか、という選択があったとしましょう。部分切除で済ませた場合は体への負担が少なくて済みますが、がんが残ってしまうリスクがあります。一方、全部摘出すれば、その意味ではより安全ですが、腎臓が一つになってしまうと、将来的に腎機能に障害が出て、人工透析生活になってしまうリスクが増大します。
・・・<中略>・・・
さてこんな場合、どのような選択をするのが「正解」なのでしょうか?人生を大きく左右しかねない重い選択を目の前にすると、その選択に伴うリスクが誰でも気になります。なるべく失敗のない良い選択ができるようにと情報を集め、選択肢のリスクと※ベネフィットを正確に把握しようと多くの人が努めることでしょうし、実際それは大切で必要なことです。しかし、ベストな選択は何か、それを一生懸命考え、調べていけばいくほど、それまで見えなかったリスクが見えてきたり、結論が真逆になっている情報があることに気づいたりして、何が正しいのか、どうしていいかわからなくなる。「ベストの選択がしたい」、「リスクのない選択をしたい」という思いが強すぎると、4足がすくんで、何も選べなくなってしまう。
学校の勉強であれば、より詳しく調べていけばいつかは正解にたどり着く、それが普通かもしれません。しかし、5現実の世界を生きていくということは、実はそんなものではない。どんな選択をしてもそれに伴うリスクが必ず存在し、現実の問題の多くには、そもそも絶対正しい「正解」なんてない。でも、その中で私たちは何かを選んでいかなくてはならないのです。何が正解なのかわからない、自分の選択は間違いなのかもしれない。そんな恐怖に耐えて、自分の責任で何かを選んでいくのです。より良い選択をするための努力はとても大切です。でも、自分のやれる限りの準備をしたら、あとはもう”飛ぶ”しかない。それができなければ、大人になれない。一人の人間として、この世界と対峙して生きていくことができない。それを世界各国にある過酷な通過儀礼は教えてくれているのではないか、私はそう思うのです。
私は、アメリカの実業家であるジャック・ウェルチの「自ら選ばない者は、他人に支配される(Control your own destiny,or someone else will)」という言葉が好きです。リスクを強調して不安を煽り、そこに「救い」を提示するという手法は、人を支配すること、またそれを利用して無限の富を生み出すことに、古くからずっと使われ続けてきました。
それは不安を生み出すリスクは程度の差こそあれ、実際にある。だから効果的なのです。
しかし、リスクを前にして立ちすくみ、何かを選ぶことから逃げ続けていると、誰かに支配されてしまう。ジャック・ウェルチの言はそう教えてくれています。それは自らの力でこの世界と対峙することから逃げている行為だからです。絶対に正しい選択など、誰にもできない。私たちにできることは、ベストの選択をすることではなく、自分の選択をベストにするように生きていくことだけです。6その覚悟こそが「自分の人生を自分のものにする」ということなのだと、私は思っています。
いとをかし ・・・ ここでは「とても味わい深い」の意味
蓋然性 ・・・ 確率
ベネフィット ・・・ 利益
問1 1「
ア バンジージャンプでは、飛ぶ人が伸縮性のあるゴムを使って飛ぶため、命に危険が及ばないことが保障されているが、ナゴールでは、飛ぶ人がヤムイモのつるを自分で工夫して高さ数十メートルのやぐらの上から飛び降り、命が危険にさらされる可能性があるということ。
イ バンジージャンプでは、飛ぶ人が安全性を事業者に担保してもらっているので、命の危険をさけるために自ら試行錯誤する必要はないが、ナゴールでは、飛ぶ人が自分の命を守るヤムイモのつるの長さや強度などの設定を自分で考え、命を落とす危険性と自ら向きあう必要があるということ。
ウ バンジージャンプでは、飛ぶ人が世界各国で共通して使われている伸縮性のあるゴムを使って飛び降りるので安全だが、ナゴールでは、飛ぶ人自身がその地域にしか存在しないヤムイモのつるを使って自分自身で飛ぶという、極めて安全性の低い状態で行われるということ。
エ バンジージャンプでは、飛ぶ人が事業者に伸縮性のあるゴムを準備してもらっているため、命を落とす危険性は少ないが、ナゴールでは、飛ぶ人が自分自身でヤムイモのつるの長さや強度などの安全性を確認し、それを足に巻き付けて飛ぶため、命を落とす危険性が高いということ。
オ バンジージャンプでは、飛ぶ人が誓約書を書くことによって命を落としたときの責任を自分自身に課すことになるが、ナゴールでは、飛ぶ人が飛ぶときのヤムイモのつるを長さや強度なども含めて自分自身で決めることで、自分の命を守る責任を負うということ。
正解:●●●
問2 3「心の防衛機能として生まれながらに人はそのようにできている」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 人は、日頃からリスクの中で生活していることを知っているが、リスクへの不安を常に感じながら生きていると疲れてしまうため、リスクのことをなるべく考えないようになっているということ。
イ 人は、日頃からリスクをさけて生活するように心がけているが、リスクを忘れて生活してしまうこともあるため、なるべく無意識のうちにリスクをさけられるようになっているということ。
ウ 人は、日頃からリスクと隣り合わせで生活しているが、リスクを常に意識して生活していると不安で何もできなくなってしまうため、リスクのことをあまり考えないようになっているということ。
エ 人は、日頃から多くのリスクに囲まれて生活しているが、リスクはどんな時でも人を不安な気持ちにさせるため、なるべく楽観的にものごとをとらえるようになっているということ。
オ 人は、日頃からリスクをさけて生活しようとしているが、リスクを時々思い出してしまうことがあるため、リスクを忘れて生活するようになっているということ。
正解:●●●
問3 4「足がすくんで、何も選べなくなってしまう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 自分にとってベストな選択ができると思った時に、それでも今自分が選択しようとしているものが本当に正しいのか判断に迷うことで不安が増していき、本当は正しい選択ができていたのにもかかわらず、間違った選択の方に自分の選択を変えてしまうということ。
イ 人生を左右するような重い選択を目の前にした時に、自分の選択が本当に正しいのかどうか不安になってしまうと、その選択が正しいものになるように努力することもできず、ただ悩み苦しむだけになってしまい、自分から行動することができなくなってしまうということ。
ウ 自らの選択がベストかどうか判断に迷った時に、自分の選択が正しいのかどうか考え過ぎてしまうと、どの選択肢も間違っているのではないかと不安になってしまい、本当は正しかったとしても自がないので、何もできなくなってしまうということ。
エ 人生における大切なことを決める時に、自分にとってベストの選択をしたいと考えるが、他人からの意見を一生懸命に聞くあまり、他人の意見に支配された選択をするようになってしまい、その後の人生においても自分で選択することができなくなってしまうということ。
オ 人生にかかわる大きな決断をせまられた時に、なるべく間違えた選択をしないように心がけるが、自分の選択について一生懸命考えれば考えるほど、自分の選択が間違っているのではないかと不安になり、自らの考えで選択することができなくなってしまうということ。
正解:●●●
問4 5「現実の世界を生きていくということは、実はそんなものではない」とあるが、なぜ学校の勉強と「現実の世界を生きていくということ」は違うのか。その説明として最も適当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 学校の勉強では、人生に役に立つものと役に立たないものがあるが、現実の世界を生きていく上では、すべての物事が人生において何かの役に立つから。
イ 学校の勉強では、教師から正解を教えてもらうことができるが、現実の世界を生きていく上では、自分で考えなければ正しい選択はできないから。
ウ 学校の勉強では、正解が存在するものを扱うことが多いが、現実の世界を生きていく上では、どんな選択をしても絶対に正しいということはないから。
エ 学校の勉強では、教師が生徒に対して一方的に教えるが、現実の世界を生きていく上では、教える側と教わる側の双方向のやり取りが必要となるから。
オ 学校の勉強では、正解に必ずたどり着くことができるが、現実の世界を生きていく上では、つねに正しさとは何かを問われ続けることになるから。
正解:●●●
問5 6「その覚悟こそが『自分の人生を自分のものにする』ということなのだ」について次の問いに答えなさい。
(1)6「その覚悟こそが『自分の人生を自分のものにする』ということなのだ」とは、どういうことか。本文全体をふまえて10字以上20字以内で説明しなさい。
(2)「自分の人生を自分のものにする」には、どのような「覚悟」が必要なのか。本文の内容を参考にしながら、あなたの考えた具体例を20字以内で書きなさい。
【二】
次の文章は、森田真生「かぞえる」の全文であり、筆者は数学に関する研究活動を行っている。これを読んで、後の問いに答えなさい。なお、出題に際して、本文には省略および表記を一部変えたところがある。
長い出張から久しぶりに京都に戻った。つい数時間前まで棚子の木が立ち並ぶ※日南の海岸沿いを車で走りながら、宮崎の雄大な自然を前にして( X )をのんでいたのだった。そのすべても、いまは遠い記憶の彼方だ。雨の降る※東山の麓には、ただ蛙の鳴く声だけがする。※疏水の上を、蛍が一匹飛んでいる。
家に着くと、とっくに眠ったはずの息子を起こさないよう、僕は慎重に玄関の戸を開いた。腕には、宮崎の高校生たちにもらった大きな花束がある。百合の甘い香りが室内に広がる。今日は、宮崎の高校で講演をしたのだ。玄関の明かりを消したまま、音を立てないよう手探りで戸の鍵をそっと閉める。
そこに、たったったったっ、と元気のいい足音がした。布団を飛び出し、息子が玄関に駆けてきた。十一時近くだというのに、まだ起きていたみたいだ。花束を抱えた僕を見上げ、「おとーさん、じょーずにおはな、とってきた!」と、( Y )を丸くしながら彼は叫んだ。口調が、最後に聞いたときより随分大人びている。二歳三ヵ月になった息子と、六日ぶりの再会である。
白川静の『文字講話I』(平凡社ライブラリー)によれば、「かぞへる」という言葉はもともと「か+そへる」で、一日ずつ、二日、三日と、過ぎ去った日に「か」の音を「そえ」ていくことに由来するらしい。楽しみな日を待ち焦がれながらかぞえる。過ぎ去った日の記憶を※反芻しながら、姿なき時の流れに一つずつ「か」をそえていく。そうして古代の人たちは、※茫漠とした時間の流れに、形を与えようとしたのだろうか。
息子が一歳半を過ぎた頃から、二人で風呂で、一緒に数を数えるようになった。扉まで湯に浸かり、声を合わせて「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう!」と唱える。もちろん彼は、まだ数の概念を理解してはいない。
先日も朝ごはんに並んだパンケーキを指して「何枚ある?」と聞いてみた。息子は、五枚しかないパンケーキを指差しながら「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな!」と、自信満々に1「数えて」みせた。
出張に出る前、僕は息子に、「来週帰ってくるからね。今回は長めの留守番になるよ」と伝えた。そのとき息子は、少し考えるようなそぶりをしたあと、「おとーさん、いいこにしててね!」と、僕を明るく見送ってくれた。六日ぶりに息子を抱き上げ、「2あれから毎日、この日を楽しみにかぞえていたよ」と、僕は心の中で言った。
数えることのできない息子に、世界はいまどう見えているだろうか。おやつの時間に食べるクッキーの数を、いつもより一枚だけ減らしてみたとき、彼はそれに気づく様子もなく、ただ大切そうに一枚ずつ、いつものように夢中になって食べていた。寝る前、「今日は何して遊んだ?」と聞いても、彼は平気で昨日や一昨日のことを言う。彼は、自分の生きる時間にかをそえることをまだ知らないのである。数で分節される前の世界を、彼は僕よりはるかに「いま、ここ」に集中しながら生きている。
数には、人の心の向きをそろえる働きがある。「六日後に会おう」と約束すれば、まだ来ぬ時間に向かって心が揃う。「右から二本目の椰子の木」と言えば、会話している二人の注意が、同じ木の方へ揃う。数は世界を切り分け、その切り分け方に応じて、人の心の向きを揃えていくのだ。
子どもは数を覚える前から、人と心が揃う喜びを知る。息子がしたがる遊びの多くは、ただ純粋にこの喜びを味わう遊戯だ。
僕がシャワーを浴びているとよく、息子が浴室のガラス戸の向こうから「たっち!」と、手のひらを戸に当ててくる。曇りガラスの向こうに、小さな手のひらがうっすらと浮かぶ。僕も「たっち!」と言って、ガラスの反対側から彼の手の上に自分の手を重ねる。今度は、彼が足の裏を「たっち!」と言ってガラス戸にくっつけてくる。僕もすかさず「たっち!」と同じ場所に足を当てる。延々とこのくり返しである。手でタッチされたら、手で返す。足でタッチされたら、足で返す。二人のあいだにルールが生まれ、彼はそのルールに気づき、それを分かち合うことを楽しんでいる。
人は他者と共鳴し、共感しながら、社会を生きる存在である。人の振る舞いを予測し、予測されながらやりとりするうちに、自然とそこにルールが生まれる。人と会ったらあいさつをする。食事が終わるとごちそうさまという。すべては、時代や場所によって移り変わるルールだ。明文化された法律だけでなく、私たちは他者とのやりとりを通して生成するルールに気づき、それに従い、ときにはそこからあえて※逸脱しながら生きている。
息子はまだ数の意味を理解していないが、やがて数を身につけ、「計算」することだって覚えていくだろう。計算するには、ルールを理解し、それを正確に守る必要がある。3何気ない遊びのなかで、そのための準備はすでに始まっているのだ。
全国各地で子どもたちに向けて講演するとき、僕は彼らの※潑刺としたエネルギーに力をもらうと同時に、明るい希望だけを語ることのできない自分にもどかしさを感じる。彼らが子や孫を持つ頃、世界はどう変わっているだろうか。はたして平和で安全な暮らしができるだろうか。僕には正直、まったく予測がつかないのである。
人と人のやりとりからルールが生まれる。そのルール自体が、時代の変化とともに変容していく。それまで当たり前と思われていたことが、時代の移り変わりとともに崩れ去っていくこともある。
教育や医療、環境や経済、政治やメディアなど、いまあらゆるところで既存の制度が壊れつつある。これからは与えられたルールに適応するだけでなく、新しいルールが生成していく場面に、参加していく力が求められるだろう。
数を覚え、計算を学び、ルールに従って記号を操作していく。それももちろん大切なことだが、そもそもルールがどこから生まれ、何を目指して共有されているのか、そのことを自覚できなくなっては元も子もない。
数を通して心を揃え、「いま、ここ」よりも広い場所へと想像力を解き放っていくこと。数に使われるのではなく、数が使いこなせるようになるのは、決して簡単なことではないのだ。
僕たちは数えることができるずっと前から、人と共感し、共鳴することを楽しんでいた。数で世界を分節する前から、人と心が揃うことを喜んでいた。4数と計算が隅々にまで行きわたった世界が、同時に血の通った場所であり続けるためにも、数を知る手前で無邪気に遊んだ、あの原風景を忘れずにいたい。
日南 ・・・ 宮崎県南部の地名
東山 ・・・ 京都市東部の地名
疏水 ・・・ 土地を切り開いてつくった水路
反しながら ・・・ 何度も思い返しながら
茫漠とした ・・・ 広がりがあってとらえどころがない
逸脱しながら ・・・ 本来の意味や目的からはずれながら
潑刺とした ・・・ いきいきとした
問1 ( X )( Y )はいずれも慣用表現の一部である。それぞれに入る語を漢字一字で答えなさい。
正解:
●●●
●●●
問2 1「数えて』みせた」とあるが、ここで筆者はなぜ息子の行動を「」を用いて「数えて」と表現しているのか。70字以内で説明しなさい。
正解例:●●●
問3 2「あれから毎日、この日を楽しみにかぞえていたよ」とあるが、ここでの筆者の気持ちはどのようなものか。その説明として最も適当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 筆者は、宮崎の自然を目にするたびに慣れない土地への出張を心細く感じていたため、出張が終わってまた慣れ親しんだ京都で過ごせることに安心している。
イ 筆者は、息子が自宅で何をして遊んでいるのか何度も想像しながら出張先での日々を過ごしていたため、京都に帰ってきて久しぶりに息子と会えたことをうれしく思っている。
ウ 筆者は、息子のいる家に帰ることを楽しみにしながら自宅から遠く離れた宮崎へ出張していたため、旅先から日常生活にやっと戻ってこられたことを喜んでいる。
エ 筆者は、出張中にその日その日を毎日思い起こしながら息子との再会を待ちこがれていたため、出張が終わってようやく息子と再会できたことをうれしく思っている。
オ 筆者は、自宅で息子と過ごしてきた日々を度々思い浮かべながら出張期間を過ごしていたため、出張が終わって帰宅した自分のことを息子が元気よく出むかえてくれて喜んでいる。
正解:●●●
問4 3「何気ない遊びのなかで、そのための準備はすでに始まっている」とあるが、なぜそのようにいえるのか。その説明として最も適当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 相手と意図を読みあうことを楽しむ遊びのなかで、相手が求めている反応に気づいたうえで時にはあえて予想をくつがえす動きをすることは、将来的に社会の中で人の心を動かす喜びを実感するための下地になるから。
イ ルールを守ることを楽しむ遊びのなかで、変化するルールに気づいたうえで相手に合わせて行動することの大切さを実感することは、将来的に変化する社会の中で新たなルールに適応しながら生きるための下地になるから。
ウ 他者との間に共通点を見いだす遊びのなかで、相手が示したルールに気づいたうえで自分もルールに従った反応をすることは、将来的に数の概念を理解してルール通りに数を操作できるようになるための下地になるから。
エ 相手の意図を予測する遊びのなかで、行動を予測することの難しさに気づいたうえで相手と同じ行動をとれたときの喜びを実感することは、将来的に人の振る舞いを予測しながら社会を生きるための下地になるから。
オ 他者と心を通わせる喜びを実感できる遊びのなかで、生じたルールに気づいたうえでそれに一緒に従うことを楽しむことは、将来的にルールを理解しそれを正確に守って計算できるようになるための下地になるから。
正解:●●●
問5 4「数と計算が隅々にまで行きわたった世界」とあるが、そのような世界において人間はどのようであるべきだと筆者は考えているのか。その説明として最も適当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 数と、ルールに従ってなされる計算が浸透している世界では、ルールを発見したうえで他者と心を通わせ、他者との間で振る舞いを予測し合う必要がある。そして、計算や数が世界に行きわたるはるか前から人間は共感することを楽しんでいたことを自覚し、数が生み出された目的を再確認することで数にふり回されずに生きていくべきである。
イ 数と、ルールに従ってなされる計算が浸透している世界では、ルールに従って記号を操作するだけではなく、自分たちの世代が目指す社会の理想像に合わせてルールを変えていく必要がある。そして、ルールが広がる前から時代に応じて人々の価値観も変化してきたことを思いだし、従来の価値観を持つ人々に価値観の変更をうながしていくべきである。
ウ 数と、ルールに従ってなされる計算が浸透している世界では、現在の社会におけるルールに適応するだけではなく、ルールの意義をよく考えて受けとめ時代の変化に合わせてルールを作りかえる必要がある。そして、人々がはるか昔から数を通じて共鳴し合っていたことを再確認し、計算を通じて予測しづらい世界を予測可能なものにしていくべきである。
エ 数と、ルールに従ってなされる計算が浸透している世界では、自分が生きる世界のみに集中するのではなく、先人が作ったルールに共感して学びつつ未来の他者も共感できるルールに変える必要がある。そして、数が世界に広がる以前から人々がルールの共有に喜びを見いだしていたことを思い出し、数を通じて他者と共感しながら生きていくべきである。
オ 数と、ルールに従ってなされる計算が浸透している世界では、社会のルールを理解しながらもルールが生じた目的や背景を自覚し、新しいルールの生成に参加していく必要がある。そして、数による分節を通じて共感し合うはるか前から人間が他者とともにルールを守ることを楽しんでいたことを心にとめ、他者と心を通わせて生きていくべきである。
正解:●●●
【三】
次の各文のカタカナを漢字に直しなさい。
1 コンクールのフクショウに時計をもらう。
正解:●●●
2 パーティーのヨキョウに手品をする。
正解:●●●
3 シュクテキのチームと再び対戦する。
正解:●●●
4 シンセイな儀式がとりおこなわれる。
正解:●●●
5 おかしを作るためにサトウを用意する。
正解:●●●
6 今回のトラブルは氷山のイッカクにすぎない。
正解:●●●
7 ヤサしい作業だからすぐに手順を覚えられた。
正解:●●●
8 仲はよいが考えをコトにする友人。
正解:●●●